「逃げ恥」の衝撃から10年。星野源、45歳の音楽的進化と、国境を溶かす遊び心
2026年1月28日。星野源が45歳になった。
45歳。私より5つ下だ。でも、彼の音楽を初めて聴いたのがいつだったか、正確には思い出せない。たぶん2016年の「恋」だろう。あの年、どこへ行ってもあの曲が流れていた。テレビをつければ「逃げ恥ダンス」、コンビニに入ればイントロが聞こえてくる。最初は正直、避けていた。国民的ヒットというものに対する、中年特有の斜に構えた態度があったのだと思う。
でも、ある夜、ヘッドフォンでちゃんと聴いてみた。腰が動いた。不覚にも、と言うべきか。あのモータウン風のビートに、マリンバの音色が乗る。妙にオリエンタルで、でも懐かしい。細野晴臣の匂いがした。YMOを通過した人間にしか出せない、東洋と西洋の境界線上で揺れる感覚。それが、日本中のお茶の間に届いている。……不思議なことだと思った。
「イエロー・ミュージック」という宣言
星野源は1981年、埼玉県蕨市の生まれ。俳優、文筆家、そして音楽家。2000年からインストゥルメンタル・バンドSAKEROCKでマリンバとギターを担当し、2010年にソロデビュー。2012年にはくも膜下出血で倒れ、生死の境をさまよった。復帰後の2015年、アルバム『Yellow Dancer』で彼は「イエロー・ミュージック」という概念を打ち出す。
ブラックミュージック——ソウル、R&B、ファンク——のリズムとグルーヴを、日本人として、黄色人種として、どう消化し、どう自分のものにするか。それは細野晴臣がYMOで追求した問いの、現代版だったのだと思う。星野自身、細野を最大の師として公言している。
私が本当に息を止めたのは、『POP VIRUS』(2018年)を聴いたときだった。深夜2時、6畳の部屋で、ヘッドフォンを付けて。表題曲のイントロが始まった瞬間、背筋に何かが走った。MPCで刻まれたビートと、生楽器のグルーヴが溶け合う。ヒップホップの骨格に、ソウルの血が流れている。これがJ-Popとして成立している。メインストリームの真ん中で、こういう音が鳴っている。……鳥肌が立った。
英語圏のファンが、Redditなどで彼の音楽について語っているのを見たことがある。「温かみのある低音」「80年代後半のジャジーでポッピーなサウンド」。言語の壁を超えて、サウンドの質感が伝わっている。それは、彼の音楽が「翻訳可能」だからではない。むしろ、「翻訳不可能な何か」が、そのまま届いているということだと思う。
国境を超えて、遊び場を作る
2019年、星野源はドームツアーを成功させた後、強烈な閉塞感に襲われていたらしい。売上や数字から切り離された、純粋な音楽の喜びを取り戻したい。そのために彼が選んだのは、海外のアーティストとの直接的な共同作業だった。
EP『Same Thing』(2019年)では、ロンドンの多国籍バンドSuperorganismや、サウス・ロンドンのTom Mischとコラボレーションしている。特にTom Mischとの「Ain’t Nobody Know」は、ネオ・ソウルのグルーヴがそのまま星野の声と溶け合っていて、J-Popの文法とは違う時間が流れている。
そして2022年、アニメ『SPY×FAMILY』のエンディングテーマ「喜劇」が、彼を世界に押し出した。Redditの海外ファンたちは、星野が新垣結衣との結婚を発表した直後だったことと、アニメの「偽装家族が本物の絆を育む」というテーマを重ね合わせて、この曲を聴いていた。家族とは何か。血のつながりか、契約か、それとも日々の積み重ねか。星野の歌詞は、安易な答えを出さない。「くだらない日々が かけがえのないほど」。日常の尊さを、大げさな言葉を使わずに歌う。
2025年5月にリリースされた6枚目のアルバム『Gen』を、私は発売日に手に入れた。セルフタイトル。「星野源」というジャンルの宣言。トラックリストを見て、目を疑った。Louis Cole、Sam Gendel、韓国のラッパーLee Young-ji、日系アメリカ人シンガーのUMI、そしてDJ Jazzy Jeff……。
「Mad Hope」を聴いたとき、また息を止めていた。Louis Coleの、人間離れしたドラミング。Sam Gendelのサックス。歌詞は意味を排除したダダイズム的な単語の羅列。……でも、そこには確かに「希望」がある。狂気じみた希望。混沌の中で、それでも踊ろうとする意志。
星野はLAにあるLouis Coleの自宅を訪れ、ドラムを録音したという。彼のYouTubeでの2010年のパフォーマンスをサンプリングした「Glitch」という曲もある。不完全さを肯定する。グリッチを愛する。
「2」という曲では、韓国のラッパーLee Young-jiと共演している。日本語、英語、韓国語が入り乱れる。国境が溶けていく感覚。彼女は元々「恋」のカバーをするほどの星野ファンだったらしい。ファンがコラボレーターになる。音楽が、人と人をつなぐ。
同年6月には、K-PopグループLE SSERAFIMの日本シングルのカップリング曲「Kawaii」をプロデュースしたことが話題になった。メンバーの宮脇咲良が星野源のファンだったことがきっかけだという。J-PopとK-Popの境界線。それもまた、溶けていく。
深夜の6畳間で
星野源の制作拠点は「Studio 808」と呼ばれるプライベートスタジオだ。そこにはヴィンテージのアナログシンセサイザーが並んでいるという。
- Sequential Circuits Prophet-5
- Oberheim OB-Xa
- Casio CZ-101
- Roland Jupiter-6
80年代の機材。温かみのある音。デジタルでは出せない揺らぎ。……私の安物のオーディオセットでも、その違いは分かる。「不思議」のイントロ、あのシンセの音色。80年代のアーバン・コンテンポラリーR&Bへのオマージュ。でも、ただの懐古趣味ではない。過去を通過して、今を鳴らしている。
コロナ禍の時期、彼は自宅で一人、録音を続けていたらしい。「創造」という曲は、任天堂とのコラボレーションで、ゲームキューブの起動音をサンプリングしている。iPhoneや8mmフィルムでMVを撮影した。遊び。実験。一人きりの部屋で、それでも音楽を作り続ける。
……私にはそれができない。聴くことしかできない。でも、聴くことで、何かが残る。記憶として。身体の反応として。深夜の6畳間で、一人でヘッドフォンを付けて、星野源の新譜を聴いている50歳の会社員がいる。それは、きっと世界中に何人もいる。言葉が通じなくても、同じ音を聴いている誰かがいる。
星野源は、Netflixのトーク番組『LIGHTHOUSE』で、「変化することへの恐怖」や「飽きられることへの不安」を語っていたという。国民的スターでも、そういうことを考えるのか。でも、彼はそれでも創り続けている。他者と接続し、新しい遊び場を作り続けている。
45歳。まだ若い。これから何枚アルバムを出すのか分からない。私は聴き続けるだろう。深夜の6畳間で、一人で。誰かに伝えたいわけではない。ただ、こういう音楽があったということを、忘れたくないだけだ。
レコードに針を落とす。ヘッドフォンを付ける。星野源の声が聞こえる。「くだらない日々が かけがえのないほど」。……そうだな、と思う。そうかもしれない。