石井大裕という名前を聞いて、最初に浮かぶのはTBSのスポーツ中継だろうと思う。駅伝やフィギュアスケートの実況で、あの少し前のめりな声を聞いたことがある人は多いかもしれない。元ジャニーズJr.で、東大卒で、実家が寺で僧侶の資格も持っている。経歴だけ並べると、どこかフィクションの登場人物みたいだ。

けど、私がこの人のことを改めて調べ直したのは、経歴の話ではなくて、結婚相手がロッテ創業家・重光昭夫の娘だったという一点に引っかかったからだ。テレビ局のアナウンサーと、日韓にまたがる巨大グループの創業一族。その組み合わせの意味を、少し考えてみたくなった。

結論から言えば、石井大裕という人物は、本人がどう思っているかとは別の次元で、非常に特殊な「場所」に立っている。テレビという公共空間と、財閥という閉じた血縁の空間。その両方に足をかけている人間は、そう多くない……。

テレビ局のアナウンサーが、財閥の一族に連なるということ

重光昭夫。この名前にピンとくる人は、たぶん2015年の「ロッテ御家騒動」を覚えているだろう。ロッテグループの創業者・重光武雄(韓国名シン・ギョクホ)の次男で、兄の重光宏之との間で繰り広げられた経営権争い。あれは、日韓のメディアが連日報じたほどの騒動だった。

ロッテというのは、日本ではガムやチョコレートの会社というイメージが強い。けど、韓国側ではホテル、流通、石油化学、金融まで手がける巨大財閥だ。その支配構造が、日本法人と韓国法人の二重構造になっていて、それを束ねているのが重光家という血縁のネットワークだった。法人格は別でも、家族が糊のようにくっつけている。そういう構造だ。

石井大裕は、その重光昭夫の娘と結婚した。つまり、日韓にまたがるコングロマリットの創業一族の婿になった。テレビ局のアナウンサーが、だ。

私はこの事実を知ったとき、しばらく画面の前で動けなかった。驚いたというより、ある種の「距離感」に眩暈がしたのだと思う。普段テレビで見ている人間が、自分とはまったく違う重力圏に生きている。その落差に、身体が一瞬ついていけなかった。

財閥の婿。この言葉の重さは、日本人にはあまりピンとこないかもしれない。韓国のチェボル(財閥)文化では、創業家の娘婿というのは、ただの「結婚相手」ではない。家業の継承、一族の結束、対外的な信用の維持、そういったものに関わるポジションだ。もちろん、石井大裕がロッテの経営に直接関与しているという話は聞かない。けれど、「重光昭夫の娘婿」という肩書きは、本人の意思とは無関係に、一定の記号として機能する。

まあ、本人にとっては単純に「好きな人と結婚した」ということなのかもしれない。そうであってほしいとも思う。でも、外から見たときに、その婚姻が持つ「構造的な意味」は、やはり無視できない。

テレビ局と財界の接点という、古くて新しい話

テレビ局のアナウンサーが財界の一族と結婚する。こういう話は、実はそこまで珍しくない。

テレビというメディアは、戦後日本において政財界と深く結びついてきた。放送免許の認可、スポンサーとの関係、株主構成。表に出ないところで、テレビ局と大企業、そしてその背後にある一族との関係は、ずっと続いている。アナウンサーという職業は、その「表の顔」にあたる。華があり、知名度があり、社交の場に出る機会が多い。そういう立場の人間が、財界のファミリーと接点を持つのは、構造としては自然なことだろう。

ただ、石井大裕の場合は少し事情が違う。相手はロッテ創業家だ。日本の財界というよりは、日韓にまたがる財閥一族である。しかも、2015年の御家騒動を経て、重光昭夫自身が韓国で横領・背任の疑いで有罪判決を受けたこともある(後に一部減刑されたが)。つまり、石井大裕が連なることになった家族は、日本のいわゆる「名家」とはまた違う、もっと複雑な力学の中にある。

石井大裕本人が、そうした背景をどこまで意識しているのか。それは私にはわからない。わからないし、知る必要もないのかもしれない。

ただ、ひとつ思うのは、人は自分が選んだはずの関係によって、選んでいない場所に立たされることがあるということだ。結婚というのは、個人的な選択のはずだ。けれど、相手の背景によって、自分の社会的な位置が書き換えられる。それは、当事者にとってどういう感覚なのだろう。

私は経理部で25年働いてきた人間だから、数字の向こうにある「力の流れ」みたいなものには、多少は敏感なつもりだ。帳簿をめくっていると、金がどこからどこへ流れているかが見える。そこに名前が浮かぶ。名前の裏に家族がいる。家族の裏に歴史がある。石井大裕とロッテ創業家のつながりも、そういう流れの一部なのだと思う。

石井大裕のことを調べていて、ふと気になったのは、彼の「多層性」だった。元ジャニーズJr.、東大卒、僧侶の資格、そしてTBSのアナウンサー。さらにロッテ創業家の婿。これだけの属性が一人の人間に乗っている。

普通なら、どれかひとつが「本業」で、残りは「過去」や「副次的なもの」として処理される。でも石井大裕の場合、どれもが現在進行形で彼を規定しているように見える。テレビに出れば「元ジャニーズJr.」が話題になり、学歴の話になれば「東大卒」が引き合いに出され、家族の話になれば「ロッテ創業家」が浮上する。

それは、本人にとって幸福なことなのか。私にはわからない。

でも、たぶん、人間というのはそういうものだ。自分が思っている「自分」と、他人が見ている「自分」は、常にずれている。そのずれが大きいほど、生きることは複雑になる。石井大裕は、そのずれがとても大きい人なのだろうと思う。

テレビの画面に映る彼は、明るくて、声がよく通って、スポーツ実況に情熱を注ぐアナウンサーだ。けれどその背後に、日韓財閥の複雑な力学があり、僧侶としての精神的な基盤があり、アイドルとしての過去がある。それらは画面には映らない。映らないけれど、彼という人間を形作っている。

見えない場所に立っている人

深夜にこの文章を書きながら、ふと、自分がなぜ石井大裕のことを書いているのかを考えた。

たぶん、「見えない場所に立っている」という感覚に、どこか共振するものがあったのだと思う。私も、会社では経理部の社員で、家では夫で父親で、この部屋では誰にも知られていないブログの書き手だ。どの「自分」も本当だけど、どの「自分」もすべてではない。

石井大裕は、テレビに映る自分と、財閥の一族に連なる自分と、僧侶の資格を持つ自分を、ひとつの身体に抱えて生きている。それは、傍から見れば華やかな話かもしれない。けれど、その多層性の重さは、本人にしかわからないだろう。

レコードに針を落とすとき、最初の数秒のノイズがある。音楽が始まる前の、あの微かな摩擦音。あれは、レコードの溝と針が出会う瞬間の振動だ。石井大裕という人を見ていると、あの音を思い出す。何かと何かが接触するときに生まれる、微かな軋み。テレビと財閥。聖と俗。公と私。そういうものが擦れ合う音が、彼の周りには常に鳴っているのだろう。

それが聞こえるのは、たぶん、深夜にヘッドフォンをしている人間だけだ……。