木村拓哉「消えないタトゥー」の覚悟。工藤静香と刻んだ“お揃い”の絆とは?
木村拓哉のタトゥー——消えないものを、あえて刻むということ
木村拓哉にタトゥーがある、という話は、もうずいぶん前から囁かれていた。
テレビの画面越しに、袖口からちらりと見えるインクの痕跡。雑誌のグラビアで、露出した肌に走る線。それを見つけるたびに、ネット上ではざわめきが起きた。「キムタクにタトゥーがある」と。日本という国で、しかも国民的スターと呼ばれる男の身体に、消えない記号が刻まれているという事実。それが持つ意味は、たぶん、思っているよりもずっと重い。
そしてもうひとつ、長年ささやかれてきたのが、妻・工藤静香とお揃いのタトゥーがあるという話だ。夫婦で同じ記号を身体に刻む。1999年の結婚から四半世紀以上。その間に何があったか、誰もが知っている。SMAPの解散。世間の容赦ない視線。それでも消えないものを、二人は肌の上に持っている……らしい。
私は木村拓哉のファンではない。少なくとも、そう自認している。けれど、50年生きてきた人間として、「消えないものを自分の身体に刻む」という行為に、どうしようもなく惹かれる部分がある。今日はその話を書く。
肌に残るもの、残さないもの
木村拓哉のタトゥーについて、確認できる情報をいくつか整理しておく。
左腕の内側にあるとされるタトゥー。これはかなり以前から目撃情報があり、テレビ出演時にも何度か映り込んでいる。デザインについては諸説あるが、文字やシンボルが組み合わされたものだと言われている。右腕にも何かしら入っているという話もある。
そして、工藤静香とのお揃いタトゥー。これについては本人たちが公式に語ったわけではない。けれど、工藤静香のSNSに映り込んだ手首付近の模様と、木村拓哉の同じ箇所に見えるものが酷似しているという指摘は、長年にわたって繰り返されてきた。星のモチーフ、あるいはイニシャルを組み合わせたデザインではないかとも言われている。
正直なところ、詳細は藪の中だ。本人たちが語らない以上、外野が断定できることではない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。木村拓哉は、タトゥーを隠さない。完全には。
日本の芸能界で、これがどれほど異質なことか。タトゥーに対する日本社会の視線は、令和になった今でも決して温かくはない。温泉に入れない。プールで断られる。就職に不利。そういう現実が、まだある。国民的スターと呼ばれた男が、その身体に消えないインクを持っている。しかもそれを、完全に隠し通そうとしない。
……これは、静かな宣言だと思う。
何に対する宣言か。たぶん、「自分は自分だ」という、それだけのことだ。けれど、それだけのことを貫くのがどれほど難しいか。25年以上、あの場所に立ち続けてきた人間なら、嫌というほど知っているはずだ。
私は深夜、仕事終わりにパソコンの前に座って、木村拓哉のインタビュー映像をいくつか見返していた。50代になった彼の腕。筋が浮き、少しだけ皮膚の質感が変わった腕。そこにまだ、あの線がある。若い頃に刻んだものが、身体の変化と共に、少しずつ形を変えながら残っている。
その映像を見て、不意に背中がぞくっとした。
タトゥーは、身体と共に老いるのだ。当たり前のことなのに、そのことに初めて気づいたような気がした。
消えない記号を刻むということは、自分の身体が変わっていくことを、あらかじめ受け入れるということでもある。
20代の肌に刻まれた線は、50代の肌の上では違う表情を見せる。それでも消えない。滲んで、広がって、でも消えない。それは覚悟だと思う。少なくとも、私にはそう見える。
工藤静香との「お揃い」について、もう少し考えてみる。
二人が結婚したのは1999年。あの頃の世間の風当たりを覚えている人も多いだろう。国民的アイドルが結婚するということ。相手が工藤静香だということ。祝福だけではなかった。むしろ、激しい反発があった。それは本人たちが一番よく知っているはずだ。
その嵐の中で、あるいはその後のどこかの時点で、二人は同じ記号を身体に刻んだ。お揃いのタトゥーという行為は、指輪よりもずっと重い。指輪は外せる。タトゥーは外せない。それは「この関係から降りない」という、身体を使った誓約だ。
まあ、ロマンチックに語りすぎかもしれない。本人たちにとっては、もっと軽い気持ちだったのかもしれない。「かっこいいから入れよう」くらいの。それはそれでいい。けれど、結果として四半世紀以上、二人の肌の上にそれは残り続けている。時間が意味を後から塗り重ねていく。最初は軽い落書きだったものが、20年経つと、遺言みたいな重さを帯びる。
2016年、SMAPが解散した。あの出来事の内側で何が起きていたのか、本当のところは誰にもわからない。ただ、木村拓哉が事務所に残るという選択をしたこと。そしてその選択が、世間から激しく批判されたこと。あの時期、彼の名前は毎日のように叩かれていた。
あの嵐の中で、工藤静香はずっと隣にいた。
彼女自身もまた、批判の矢面に立たされ続けた人だ。「キムタクの妻」として、あることないこと書かれ続けた。それでも、二人は一緒にいた。離れなかった。肌の上の記号が、消えなかったように。
海外の文脈で言えば、カップルタトゥーは関係性のコミットメントの象徴として広く認知されている。デヴィッド・ベッカムとヴィクトリアの夫婦タトゥーは有名だし、ハリウッドのセレブリティの間でもパートナーとお揃いのインクを入れることは珍しくない。けれど日本では、そもそもタトゥー自体がまだタブーに近い。その中でお揃いを入れるというのは、欧米のそれとはまた違う重さがある。社会的なリスクを二人で引き受ける、という意味合いが加わるからだ。
工藤静香は画家でもある。二科展に何度も入選し、海外でも作品を発表している。視覚的な表現に対する感性は、並ではない。彼女にとってタトゥーは、キャンバスが身体に変わっただけなのかもしれない。皮膚という、もっとも親密なキャンバス。そこに二人で同じ絵を描く。……その行為の意味は、芸術家としての彼女にとって、私が想像するよりもずっと深いものがあるのだろう。
消えゆくものと、消えないもの
私は50歳になった。身体は確実に変わっている。老眼が進み、膝が軋み、深夜まで起きているだけで翌日に響く。若い頃に聴いた音楽の記憶は、少しずつ輪郭がぼやけていく。レコードに針を落とせば思い出す。でも、針を落とさなければ、あの感覚は徐々にフェードアウトしていく。
だから書いている。消える前に、書き留めておきたいから。
木村拓哉のタトゥーを見て思うのは、彼もまた同じことをしているのかもしれない、ということだ。ただ、彼の場合は言葉ではなく、身体に刻んでいる。消えゆく時間の中で、消えないものを選んで、自分の肌に焼き付けている。
お揃いのタトゥー。それは「絆」という言葉で片付けてしまえばそれまでだ。けれど、四半世紀という時間の重みを知っている人間には、もう少し複雑なものが見える。絆というのは、ただ美しいだけのものではない。重く、時に痛く、それでも切れないから絆と呼ぶ。
深夜2時。ヘッドフォンを外して、自分の左腕を見る。何も刻まれていない。シミと産毛と、少したるんだ皮膚があるだけだ。ここに何かを刻む勇気は、たぶん私にはない。
だから、文章を書く。消えるかもしれないデジタルの文字を、夜ごと、画面の上に並べていく。
木村拓哉は、消えないものを選んだ。
私は、消えるかもしれないものを選んでいる。
でも、どちらも同じだと思う。
何かを残したい、という気持ちは……。