藤原紀香と水素水——信じたい気持ちの行き先について

藤原紀香が水素水を愛飲しているという話は、もうずいぶん前から知っていた。正確にいつ頃からかは覚えていないけれど、たぶん2010年代の半ばだったと思う。テレビかネットか、何かで見かけて、ああ、そうなんだ、と思った記憶がある。それ以上でもそれ以下でもなかった。

ただ、最近になって「藤原紀香 水素水 なぜ」「水素水 効果なし」といった検索が再び増えているらしい。彼女の名前と水素水は、もうセットのようになっている。本人がどう思っているかは知らない。けれど、この話には科学の問題だけでは片づかない何かがある気がして、少し書いておきたくなった。

先に結論めいたことを言ってしまうと、水素水に科学的根拠はない。少なくとも、2025年現在の国際的な科学コミュニティの見解としては、美容や健康への効果を支持する十分なエビデンスは存在しない。国民生活センターも、米国のFDAも、欧州食品安全機関も、基本的には同じ立場だ。これは揺るがない事実として、まず置いておく。

でも、私が気になっているのは、そこではない。
なぜ、藤原紀香ほどの人が水素水を信じるのか。
そして、なぜ私たちはそれを笑えるのか。
……あるいは、笑えないのか。

「効く」と「効いている気がする」の間

藤原紀香は1971年生まれ。今年で54歳になる。1990年代後半から2000年代にかけて、日本で最も華やかな女性の一人だった。ミス日本グランプリ、グラビア、ドラマ、CM。あの頃の彼女には、ちょっと異常なくらいの「陽」のエネルギーがあった。テレビの向こう側から、こちらの空気まで変えてしまうような。

私は当時30代で、正直に言えば藤原紀香にそこまで関心はなかった。音楽ばかり聴いていた。でも、あの存在感は覚えている。会社の同僚が「紀香のCM見た?」と言っていたのも覚えている。時代の空気そのものだった。

彼女が水素水にたどり着いた経緯を正確には知らない。ただ、SNSや雑誌のインタビューで「美容と健康の源」「アンチエイジングの秘訣」として水素水を語っていたことは、複数の記録が残っている。「ピュアハイドロゲン」というブランドのアンバサダーも務めていた。

ここで、科学的な話を少しだけ。

水素(H₂)は地球上で最も軽い気体で、水に溶ける量は極めて少ない。25℃で約0.8mg/L。しかも揮発性が高いから、ペットボトルの蓋を開けた瞬間から抜けていく。仮に体内に入ったとしても、ビタミンCやポリフェノールのような既知の抗酸化物質と比べて、理論上の効力は桁違いに低い。物理化学的に、そもそも「効く」メカニズムが成立しにくい。これが「効果なし」と言われる根本的な理由だ。

国民生活センターは2016年に水素水関連製品の調査結果を公表し、表示されている水素濃度が実際にはほとんど検出されない製品があることを指摘した。日本の国立健康・栄養研究所も「科学的根拠が不十分」と明示している。海外でも事情は同じで、FDAは水素水を医薬品として承認していないし、EFSAも健康強調表示を認めていない。

つまり、どこを見ても「効く」とは言えない。

……でも、藤原紀香は信じている。少なくとも、信じているように見える。

これを「バカだ」と切り捨てるのは簡単だ。ネット上にはそういう声がたくさんある。でも、私はそこで少し立ち止まってしまう。50年生きてきて、自分が何も信じていないかと問われたら、とても胸を張れない。

たとえば、私はレコードの音がCDより「良い」と思っている。物理的に言えば、レコードはノイズが多いし、ダイナミックレンジも狭い。デジタルのほうが正確に音を再現できる。それは知っている。知っていて、なお、レコードに針を落としたときの「あの感じ」が好きだ。科学的に説明できないものを、身体が肯定している

藤原紀香にとっての水素水も、似たような構造なのかもしれない。飲んで、肌の調子が良い気がする。体が軽い気がする。その「気がする」を積み重ねていくうちに、もう疑えなくなる。プラセボ効果という言葉では片づけたくないような、身体に根ざした確信。

もちろん、レコードの音の好みと、健康商品の効能を同列に語ることはできない。レコードは他人に勧めても害はないけれど、根拠のない健康商品を影響力のある人が推奨すれば、それは消費者に実害を与えうる。そこは分けて考えなければいけない。

なぜ芸能人は疑似科学にハマるのか

藤原紀香に限った話ではない。芸能人やインフルエンサーが、科学的根拠の乏しい健康法や美容法にのめり込む事例は枚挙にいとまがない。水素水、酵素、デトックス、波動……。

これには構造的な理由がある、と私は思っている。

彼女たちは「自分の身体で結果を出し続けなければならない人々」だ。

女優やモデルにとって、美しさと健康は職業的な資本そのものだ。しかも、その成果は主観的で、数値化しにくい。肌の質感、体のライン、表情の輝き。こうしたものは医学的な検査値では測れない。だから、自分の感覚——「調子が良い」「肌が違う」——が最大の判断基準になる。

加えて、彼女たちの周囲にはいつも「良いもの」が集まってくる。スポンサー、PR会社、美容の専門家を名乗る人々。そうした人たちが「これは本当に良いものですから」と勧めてくる。信頼する人から勧められたものを疑うのは、実は相当なエネルギーがいる。

そしてもう一つ。成功体験が「信じる力」を強化するという問題がある。藤原紀香はポジティブ思考の人だと言われている。それは彼女の長所だろう。困難があっても前を向く。離婚を経て再婚し、舞台に軸足を移して新しいキャリアを築いた。その回復力は本物だと思う。

けれど、ポジティブであることは、時に「疑う力」を弱める。うまくいっている実感があるとき、その原因を問い直すのは難しい。水素水を飲み始めてから調子が良い。だから水素水が効いている。この因果の飛躍に気づくためには、自分自身を疑わなければならない。それは、ポジティブに生きてきた人にとって、最も不得意な行為かもしれない。

私は別に藤原紀香を擁護したいわけではない。影響力のある人間が根拠のない商品を推奨することの問題は、消費者庁が景品表示法やステルスマーケティング規制を強化していることからも明らかだ。数百億円規模に膨らんだとされる水素水市場の形成に、著名人の発信が果たした役割は小さくない。

ただ……。

50歳になって思うのは、人は何かを信じないと生きていけない、ということだ。科学だけでは埋まらない隙間がある。深夜に一人でレコードを聴いているとき、ふと、この音楽が自分を救っていると感じる瞬間がある。それはエビデンスではない。でも、嘘でもない。

藤原紀香が水素水に見出しているものも、たぶんそういう類のものなのだろう。自分の身体と向き合い、自分なりの答えを見つけ、それを信じる。その行為自体は、人間としてごく自然なことだ。問題は、それを公の場で、影響力を持つ人間が、商業的な文脈で発信するとき、「個人の信念」が「公衆の誤解」に変わるということだ。

このふたつを分けるのは、思ったより難しい。

深夜の6畳間で思うこと

今夜もヘッドフォンをして、古いレコードを聴いている。ニール・ヤングの『Harvest Moon』。1992年のアルバム。もう何百回聴いたかわからない。

ニール・ヤングは頑固な男で、デジタル録音を嫌い、アナログにこだわり続けた。「デジタルの音は死んでいる」と公言してはばからなかった。科学的に見れば、それは必ずしも正しくない。でも、彼のアナログへの信仰は、彼の音楽の一部になっている。信じることで生まれる熱がある。

藤原紀香の水素水も、彼女なりの「信仰」なのかもしれない。
ただ、ニール・ヤングのアナログ信仰は誰も傷つけない。
水素水は……どうだろう。

息を止めて、考える。

結局、私に言えることは多くない。水素水に科学的な効果は認められていない。それは事実だ。そして、藤原紀香は現在も活動を続けていて、舞台を中心に女優としてのキャリアを重ねている。彼女の美しさや健康が水素水のおかげなのか、それとも彼女自身の生き方や体質のおかげなのか、それは誰にもわからない。

わからないことを、わからないと言う。
信じたい気持ちを否定はしない。でも、根拠がないことは根拠がないと言う。
その二つを同時にやるのが、たぶん、誠実さというものだと思う。

レコードの針が内周に近づいて、音が少しずつ歪んでいく。
フェードアウト。消えゆくもの。
でも、余韻だけは残る……。