古坂大魔王とピコ太郎——「同一人物」という問いが、なぜこんなに面白いのか

古坂大魔王とピコ太郎は同一人物である。

もう隠すまでもない。本人も認めている。テレビでも何度も変身シーンが映されている。ネット上には検証動画が山ほどある。体型、声、仕草、すべてが一致する。DNA鑑定するまでもない話だ。

……なのに、この問いがいまだに検索され続けている。「古坂大魔王 ピコ太郎 同一人物」「ピコ太郎 正体」「古坂大魔王 別人説」。2016年のPPAPブームから何年も経って、答えはとっくに出ているのに、人はまだ調べている。

これは「答えを知りたい」のではないと思う。たぶん、この問いそのものが面白いからだ。知っているのに確認したくなる。「やっぱりそうだよな」と納得したい。あるいは、あの奇妙な黄色いヒョウ柄の男と、ワイドショーで真面目にコメントしている男が同一人物であるという事実を、もう一度味わいたいのかもしれない。

古坂大魔王。本名は古坂和仁。1973年10月8日、青森県青森市生まれ。もともとは「底抜けAIR-LINE」というお笑いコンビのボケ担当で、1990年代から芸人として活動していた。コンビ解散後はピンで活動しつつ、音楽プロデューサー、DJ、そしてコメンテーターと、仕事の幅を広げていった人だ。で、2016年に「ピコ太郎」という別名義のキャラクターでPPAPを発表し、世界的に爆発した。ジャスティン・ビーバーがTwitterで紹介したのがきっかけで、YouTube再生回数は1億回を超え、ビルボードにもチャートインした。45秒の動画が、世界を動かした。

私はあのとき、正直に言えば、最初は何も感じなかった。「ペンパイナッポーアッポーペン」という音の連なりを聞いて、ふーん、と思っただけだ。けど、三回目くらいに聴いたとき、不意に腰が動いた。自分でも驚いた。意味なんかない。歌詞と呼べるものもほとんどない。なのに、身体が反応している。あれは不思議な体験だった。

「別人です」を演じ続けた数年間のこと

面白いのは、古坂大魔王がかなり長い間「ピコ太郎は私がプロデュースしている別の人です」という設定を崩さなかったことだ。テレビに出るときも「マネージャー」として横に立ち、ピコ太郎の代わりに受け答えをしていた。

バレバレだった。誰が見てもわかる。体格も声も同じだし、共演シーンでは明らかに着替えて出てくるだけだった。けど、周囲もそれに乗った。司会者も、共演者も、視聴者も。「いやいや同じ人でしょ」と笑いつつ、その「嘘」を楽しんだ。ツッコミながら、設定を壊さない。あの空気感は、日本のお笑い文化特有のものだと思う。

海外のメディアでは事情が違ったらしい。BBCやCNNがピコ太郎を取り上げたとき、「正体は日本のコメディアン古坂大魔王」とあっさり報じていた。向こうにはキャラクターと演者を分離して楽しむという文化的土壌があまりない。ディズニーの着ぐるみの中に人がいることを指摘するような、身も蓋もない態度というか。まあ、それはそれで合理的ではある。

でも日本では違った。「別人設定」が一種の共犯関係として成立していた。みんなが知っている。けど、みんなが知らないふりをする。それ自体がコンテンツになっていた。

これは考えてみれば奇妙なことだ。事実としては「同一人物」。でも文化的な文脈では「別人として扱う」ことに意味がある。嘘を嘘と知りながら、その嘘を楽しむ。これはフィクションの原理そのものだ。小説を読むとき、映画を観るとき、私たちはそれが作り物だと知っている。知った上で、没入する。古坂大魔王とピコ太郎の関係は、それと同じ構造を持っている。

私は長いこと音楽を聴いてきて、似たような構造に何度も出会ってきた。たとえばデヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」。ボウイは架空のロックスター、ジギー・スターダストというキャラクターを演じ、そのキャラクターとして歌い、インタビューに答え、最後にはステージ上で「殺した」。ボウイとジギーは同一人物か。もちろんそうだ。でも、あの時代のファンにとって、ジギーは確かに「いた」。ボウイとは別の存在として。

MF DOOMというラッパーもそうだった。鉄仮面をかぶり、本名を隠し、ライブに替え玉を送り込んだという逸話すらある。彼にとって「DOOM」はキャラクターであり、そのキャラクターを通してしか語れないことがあった。

古坂大魔王がやったことも、本質的には同じだと思う。「古坂大魔王」という芸名自体がすでに本名からの飛躍だ。そこからさらに「ピコ太郎」という第三の人格を作った。古坂和仁→古坂大魔王→ピコ太郎。三層構造。それぞれの層で、振る舞いも言葉も違う。経理部で数字を扱っている自分と、深夜にレコードを聴いている自分が別人であるように……いや、これは私自身の話だ。脱線した。

PPAPが世界で受けた理由のひとつは、あの曲に「意味がなかった」ことだと言われている。

ペン、パイナップル、アップル、ペン。意味を探そうとしても何もない。英語圏の人が聴いても、日本人が聴いても、同じように「意味がない」。それが逆に、言語の壁を消した。意味がないから、誰でも入れた。リズムと音だけが残った。

45秒というフォーマットも絶妙だった。2016年当時、スマートフォンでの動画視聴が爆発的に伸びていた時期だ。長い動画は見られない。でも45秒なら、信号待ちの間に見られる。そしてもう一回見たくなる。そしてもう一回。繰り返すたびに、あのリズムが身体に刻まれていく。私もそうだった。気づけば、歯を磨きながら「アッ」と声が出ていた。妻に怪訝な顔をされた。

2020年には、ピコ太郎がWHOと協力して手洗い啓発動画を作った。「PPAP 2020」。コロナ禍の最中に、あの無意味な歌が公衆衛生のメッセージを運ぶ媒体になった。これは地味にすごいことだと思う。国連の関連機関が、黄色いヒョウ柄の男に頼んだのだ。ピコ太郎というキャラクターが、もはや古坂大魔王個人の持ち物ではなく、世界的な記号として独立して機能していることの証拠だろう。

そう考えると、「別人説」はある意味正しかったのかもしれない。ピコ太郎は古坂大魔王から生まれた。けど、生まれた瞬間に、彼はひとり歩きを始めた。作り手の手を離れて、世界中の人がモノマネし、パロディを作り、自分のものにしていった。もう古坂大魔王がコントロールできる範囲を超えている。子供が親の手を離れるように。

キャラクターを「演じる」ということの奥行き

日本のお笑いには「キャラ芸人」という系譜がある。コント中だけキャラクターを演じるのではなく、テレビ出演やインタビューでもそのキャラクターとして振る舞い続ける人たち。古坂大魔王/ピコ太郎はその延長線上にいるが、特異なのは、そのキャラクターが国内の文脈を飛び越えて世界に到達したことだ。

吉本興業のような大きな事務所の後ろ盾があったわけでもない。YouTubeという開かれたプラットフォームに動画を置き、それが偶然(あるいは計算された偶然)によって世界に拡散された。既存の芸能産業の仕組みを迂回して、一人の芸人がグローバルな存在になった。2016年という時代が、それを可能にした。

今の古坂大魔王はワイドショーのコメンテーターとしても活動している。AIと教育について語り、地域創生の話をし、社会問題に対して的確でユーモアのある発言をする。その姿を見ると、あのヒョウ柄のスーツで「アイハバペン」と叫んでいた男と同一人物であることが、また不思議に感じられる。

けど、たぶんそれが人間というものなのだ。

私たちは誰でも、複数の顔を持っている。会社での顔、家庭での顔、一人きりのときの顔。それぞれが本物で、それぞれが少しずつ違う。古坂大魔王はそれを極端な形で可視化して見せた。「古坂和仁」「古坂大魔王」「ピコ太郎」という三つの名前が、一人の人間の中に共存している。どれが本物かと問うこと自体が、たぶんあまり意味がない。

深夜、仕事と家事が終わって、6畳の部屋でヘッドフォンをつけてレコードを聴いている私は、昼間の経理部の私とは別人だ。ブログに文章を書いている「Fade」という名前の私は、さらに別の誰かだ。本名で呼ばれる私。部署で呼ばれる私。誰にも呼ばれない私。

古坂大魔王とピコ太郎が同一人物かどうか。答えは「同一人物」だ。それは確定している。けど、その確定した答えの向こう側に、もっと大きな問いがある。人は、いくつの自分を生きられるのか。

PPAPを初めて聴いたとき、私は何も感じなかった。三回目に腰が動いた。十回目には、あの45秒が妙に愛おしくなっていた。意味なんかない。でも、身体が覚えている。忘れたくても忘れられない。

ペン、パイナップル、アップル、ペン。それだけの言葉が、世界を一周して、まだ誰かの口から漏れている。たぶん今日も、どこかで……