菅田将暉の身長、178cmという数字のこと

2024年、菅田将暉の身長についての話がまた少し盛り上がっているらしい。公称178cm。それに対して「サバ読みではないか」という声が、もう何年も前からある。共演者との比較写真がSNSに並べられ、数センチの差異をめぐって議論が交わされている。

結論から言えば、実測は174〜176cm前後ではないか、というのがネット上でもっとも多い推定だ。妻の小松菜奈が公称166cmで、公称値どおりなら差は12cmになるが、二人が並んだ写真を見ると、そこまでの差は感じられない場面が多い。小松菜奈がヒールを履いている場合、ほぼ同じ高さに見えることもある。実際の差は8〜10cm程度ではないか、という見方が有力とされている。

ただ、確定的なデータは存在しない。あくまで推定だ。

……で、私はこの話題に何を思うのか。正直に書く。

最初は興味がなかった。身長の話なんて、と思った。でも、しばらく考えているうちに、妙に引っかかるものがあった。数字と身体。見えているものと、実際のもの。その隙間に、何か人間くさいものが潜んでいる気がして。

共演者との「差」を見つめる視線

菅田将暉の身長サバ読み疑惑の根拠として、よく挙げられるのが共演者との並び写真だ。

たとえば岡田将生(公称180cm)と並ぶと、菅田のほうが明らかに低い。これは178cmなら2cmの差のはずだが、見た目にはもう少し開いているように感じる。一方で綾野剛(公称176cm)とはほぼ同じか、菅田がわずかに高いくらいに見える。山田孝之(公称178cm)とは同じか、菅田がやや低いか。

こういう比較を丹念にやっていくと、174〜176cmあたりに落ち着く。まあ、そういうことなのだろう。

けど、ここで少し立ち止まる。

この比較という行為そのものが、実はかなり危うい。カメラとの距離、姿勢、靴底の厚さ、撮影の角度。変数が多すぎる。猫背ひとつで2〜3cmは変わる。菅田将暉は役によって姿勢そのものを変える俳優だから、なおさらだ。『あゝ、荒野』のときの背中の丸め方と、『帝一の國』のときの背筋の伸ばし方では、同じ人間とは思えないくらい「高さ」が違って見える。

だから、写真を並べて「ほら、やっぱり低い」と言い切ることには、私は少し慎重になる。

……ただ、それでも気になるのだ。人間というのは不思議なもので。

小松菜奈との並びが、いちばん議論を呼んでいる。

二人の結婚は2021年。2022年には第一子の誕生が報じられた。公の場に夫婦で並ぶ機会は多くないが、映画の共演作や過去のイベント写真、ごくまれに撮られるプライベートショットなどが検証の材料になっている。

公称どおりなら178cmと166cm、差は12cm。でも、並んだ写真を見ると、12cmという差はあまり感じられない。小松菜奈がフラットシューズのときでも、差は10cmないように見える場面がある。小松菜奈がヒールを履けば、ほとんど同じ目線だ。

もちろん、小松菜奈はモデル出身で、手足が長く、全体のバランスとして「大きく見える」タイプの人だ。166cmという数字以上の存在感がある。だから単純に「差が小さく見える=菅田が低い」とは言えない。

言えないのだけど。

私は、二人が映画『糸』で共演したときの場面を思い出す。中島みゆきの曲をモチーフにした、あの映画。並んで歩くシーンで、二人の肩の高さがそれほど離れていなかったことが、妙に印象に残っている。映画としての出来とは別の話だ。ただ、あの「並び」の感じが、頭に残った。

芸能界における身長のサバ読みは、もはや文化と呼んでもいいかもしれない。

男性俳優の場合、2〜5cm程度の上乗せは珍しくないとされている。これは個人の虚栄心というよりも、産業の構造的な要請に近い。日本のエンターテインメント業界では、男性俳優に対して「180cm前後が理想」という暗黙の基準がいまだに根強い。175cm前後の俳優が178cmや180cmと表記するのは、その基準に応答するための慣習であって、悪意のある嘘とは少し違う。

身長という数字は、身体そのものではなく、「消費されるべきイメージとして生産された数値」として機能している。

どこかでそういう趣旨の文章を読んだことがある。ボードリヤールのシミュラークルがどうとかいう話だった気がするが、まあ、小難しい理論はいい。要するに、公称身長とは「本当の高さ」ではなく、「見せたい自分の輪郭」なのだということだと思う。

そう考えると、菅田将暉が178cmを名乗ることと、彼が役ごとにまったく別の人間になることは、根っこのところで繋がっている気もする。自分の輪郭を自分で決める。本当の自分なんてものが一つに定まらない人間にとって、数字もまた「衣装」の一部なのかもしれない。

数字の外側で鳴っている音

ここまで書いて、私は自分がなぜこの話題に引っかかったのか、少しわかった気がする。

私は音楽の人間だ。芝居のことは詳しくない。でも、菅田将暉が歌う声は何度か聴いている。「さよならエレジー」がラジオから流れてきたとき、運転中だったのだけど、思わず音量を上げた。声に妙な引力があった。うまいとか下手とかではなくて、声の中に「隠しきれない体温」がある感じ。あの声は、178cmの声ではないし、175cmの声でもない。数字では測れないものが鳴っている。

「まちがいさがし」を深夜にヘッドフォンで聴いたとき、息を止めていた瞬間があった。米津玄師が書いた曲だが、菅田の声で歌われることで、別の生き物になっていた。あの曲の「間違っていないよ」という感触は、身長を何センチかサバ読んでいるかもしれない人間が歌うことで、不思議なリアリティを帯びる。……いや、そこまで結びつけるのはさすがに飛躍か。

でも、思うのだ。

私たちは数字で人を測りたがる。身長、体重、年齢、年収、偏差値。測れるものに安心する。測れないものが怖い。だから、菅田将暉の身長が178cmなのか175cmなのかを知りたがる。確かめたがる。でも、確かめたところで何が変わるのか。

彼が『あゝ、荒野』で見せたあの身体の切実さは、身長が何センチであろうと変わらない。小松菜奈と並んだときの、あの不思議に釣り合った感じも、数字では説明できない。

50年も生きていると、測れないもののほうが大事だと知っている。けど、測れるものにすがりたくなる弱さも知っている。その両方を抱えたまま、人は生きていく。たぶん、菅田将暉も。

深夜、レコードに針を落とす。今夜は音楽ではなく、俳優の身長のことを書いた。自分でも変な気分だ。

でも、数字と身体の隙間には、何かがある。

178cmと書かれたプロフィール。それを信じる人、疑う人。並び写真を拡大して検証する人。そのすべてが、「本当のこと」を知りたいという、ささやかで切実な欲望の表れだと思う。

本当のことなんて、たぶん誰にもわからない。本人にさえ。

朝が来る前に、もう一曲だけ聴こう。「さよならエレジー」を。あの声の中にある、測れないものを……