今シーズンからアメリカに活躍の場を移していた大谷翔平選手が最も活躍した新人に与えられる「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」新人王に選ばれました!
度々アメリカでも活躍されている姿は放送されていましたが、タイトルも獲得して記憶だけでなく記録まで残す姿はあっぱれです!
今回は新人王に選ばれるまでの過程を調べてみました。
最初からメジャー行きを宣言していた日本ハム時代
大谷選手が花巻東高校の3年生の時に行われたドラフト会議は2012年の10月。
高校卒業後に即メジャーへ挑戦すると発言をしたことで当時は非常に大きな話題を呼びました。
なぜならNPB(日本野球機構)は、2009年にいわゆる「田澤ルール」を制定していたからです。
名前の通り田澤選手が行った行動によって制定されたルールです。
日本のプロ野球の経験をせずに社会人リーグからメジャーリーグへ移籍してしまった田澤純一選手の行動に感化され、誰もが高卒後→即メジャーという道を選ぶことで、日本プロ野球でプレイする選手がいなくなってしまうのではないかとNPBは危機感を感じました。
その強い恐怖心から、日本プロ野球を経験せずに即メジャーなど海外挑戦をした方は、球団との契約が切れてしまったとしても、高卒の方は3年間、大学や社会人リーグの方は2年間、NPB(日本野球機構)即ち日本プロ野球とは契約できないというルールを作ったのです。
「行くのは勝手だけど、あとで戻って来たくても2〜3年はプレーできないからね!」と脅すかのようなルールですね。
海外挑戦がすんなり上手くいくとは限らないのに、2〜3年もプレーできない状態では、コンディションを保つのはかなり厳しい状態になってしまいます。
「ダメだったら日本に帰ってこれば良いや」という安心感を失うわけですから、結果的に田澤ルール以降は2018年現在も即メジャー挑戦をした方はいません。
だからこそ、大谷選手が即メジャー挑戦を宣言したときは大変な騒ぎとなりました。
まさか田澤ルールの‘脅し’に屈せずに即メジャー挑戦を目指そうとする若者が現れるなど思ってもみなかったのでしょう。
しかしなぜ大谷選手は即メジャー挑戦という発言をしたのでしょうか?その背景にも迫ってみました。
高校1年生の頃から注目していたドジャースの日本担当スカウト「小島圭市」さん
今の大谷選手が所属しているのはロサンゼルス・エンゼルスてすが、2012年当時に移籍先として注目されていたのは同じくロサンゼルスのドジャースの方でした。
このドジャースには日本担当のスカウトを務める元プロ野球選手の日本人、小島圭市さんがおり、大谷選手が高校1年生のときから度々練習場や試合に訪れて成長を見守っていたそうです。
元々は大谷選手の3つ上の先輩、菊池雄星選手のために花巻東高校をよく訪れており、高卒→即メジャーの流れを考えていたそうなのですが結局叶わず。
大谷選手の場合は、メジャーに挑戦する!という発言=ドジャースへ行く!という意味でもあったので、結局日本ハムへ行くことになってしまったときは大変残念なことだったでしょう(しかも同じ地域のエンジェルスに移籍されてしまった)
大谷選手を口説き落としたのは、日本ハム側の誠実かつ熱意のある粘りの対応によるものだったと言われております。
「大谷翔平君 夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察~」と題された資料まで作り、どうやったら大谷選手が理想的な成長を遂げ、後にメジャーへ挑戦できる基礎を身につけられるか、真剣に考えていたことが伝わってきますね。
結果的には高卒1年目から大活躍し、投手と打者の二刀流をこなす話題性もバツグンな存在でした。
日本プロ野球で大成功した大谷選手がメジャーでも挑戦1年目に新人王を獲得して大成功!
今後の活躍にも益々目が離せなくなってきましたね!
期待も込めて、来年は大谷選手が今年以上の成績をおさめることを願いましょう!
あなたに届けるピンフルエンサー!
今回もお読みいただきありがとうございました。