2026年2月26日、黒い服の男が生まれた日に

ジョニー・キャッシュが生まれたのは1932年の今日、2月26日だ。アーカンソー州キングスランド。綿花農家の息子として。生きていれば94歳ということになる。

カントリー・ミュージックの巨人、という紹介をされることが多い。まあ、間違いではない。けど、それだけでは足りない。ロックンロールの殿堂にも、ゴスペル音楽の殿堂にも入っている。カントリーの枠に収まらなかった男だ。生涯で9000万枚以上のレコードを売り、1000曲以上を書いた。深いバス・バリトンの声。列車の律動のようなギターのリズム。そして、全身黒ずくめ。「Man in Black」。黒服の男。

私がキャッシュの声を初めてまともに聴いたのは、たぶん20代の後半だったと思う。正確には覚えていない。洋楽を聴いてはいたが、カントリーには長いこと手を出さなかった。食わず嫌いだった。ロックやソウルの方がかっこいいと思っていた若い頃の自分に、今さら説教しても仕方ないけれど。ある夜、深夜のFM放送から「Folsom Prison Blues」が流れてきた。列車の音を模したあのギターのリフが始まった瞬間、背筋がすっと伸びたのを覚えている。何かが通り過ぎた。風でも電流でもない、もっと重たいもの。それがキャッシュとの最初の接触だった。

罪を歌う声、赦しを求める沈黙

キャッシュの音楽を貫いているのは、罪と贖罪というテーマだと思う。それは彼自身の人生がそうだったからだ。

12歳の時、仲の良かった兄のジャックが製材所の丸鋸で体をほとんど真っ二つにされて亡くなった。15歳だった。母親はその日、仕事を休んでキャッシュと釣りに行くようジャックに勧めたらしい。でもジャックは家計のために働きに出た。キャッシュはその罪悪感を生涯背負い続けたという。「天国で兄に会えることを楽しみにしている」と繰り返し語っていたそうだ。

その後の人生も、まっすぐとは言い難い。アンフェタミンとバルビツール酸への依存。最初の妻ヴィヴィアンとの離婚。森林火災。何度もの逮捕。刑務所に入ったことはないが、留置場には7回入っている。花を摘むために他人の私有地に入って逮捕されたこともある。……花を摘むために。なんだかキャッシュらしい。破滅的なのに、どこか間が抜けている。

けれどその暗闘の中で、彼の音楽はどんどん深くなっていった。1968年のフォルサム刑務所でのライブ録音。あの冒頭、「Hello, I’m Johnny Cash」と名乗る声を聴くと、今でも息を止めてしまう。囚人たちの歓声。あの空間に流れる空気の密度は、録音を通してさえ伝わってくる。キャッシュはステージで囚人たちに向き合った。彼らを見下ろしたのではない。同じ地面に立っていた。少なくとも、そう聞こえた。

なぜ黒い服を着続けたのか。本人は1971年の楽曲「Man in Black」でこう歌っている。

貧しい者のために、飢えた者のために、長い刑期を終えた囚人のために、黒を着る。

自伝では、ベトナム戦争で失われた命への「喪服」でもあると語っている。「戦争が終わった以外に、この立場を変える理由は見当たらない……老人はまだ顧みられず、貧しい者はまだ貧しく、若者はまだ早すぎる死を迎えている」。最初は単にバンドで揃いの色が黒しかなかったから、という説もあるらしい。たぶん、どちらも本当なのだろう。実用的な理由から始まったものが、やがて倫理的な声明になっていく。人間はそういう生き方をすることがある。

キャッシュの信仰もまた、一筋縄ではいかない。敬虔なクリスチャンでありながら、薬物に溺れ、過ちを繰り返し、それでも教会に戻り、ビリー・グラハムの集会で歌い、聖書の朗読を録音した。小説まで書いている。使徒パウロについての『Man in White』という本だ。ある記者に「バプテストの立場ですか、カトリックですか」と聞かれたとき、キャッシュはこう答えたという。「私はクリスチャンだ。別の箱に入れないでくれ」。この言葉には、彼のすべてが入っている気がする。箱に入ることを拒んだ男。音楽のジャンルも、信仰の宗派も、善悪の二項対立も。

ネイティブ・アメリカンへの連帯も忘れてはならない。1964年のアルバム『Bitter Tears』は、先住民族の悲劇を歌ったコンセプト作品だった。シングル「The Ballad of Ira Hayes」はラジオ局からほとんど放送を拒否された。レコード会社も「刺激的すぎる」とプロモーションを渋った。するとキャッシュはBillboard誌に自費で広告を打った。「DJたち、局長たち……お前たちの度胸はどこにある?」と。1950年代のカントリー音楽の主流が「正義のカウボーイ」の物語に支配されていた時代に、入植者の暴力を正面から歌うこと。それがどれほど異質だったか。セネカ族のタートル・クランに養子として迎え入れられたのは、その活動が認められたからだ。

「Hurt」、そして消えないもの

キャッシュの物語で避けて通れないのは、晩年のリック・ルービンとの仕事だろう。

1990年代初頭、メジャーレーベルから契約を切られたキャッシュに手を差し伸べたのは、ヒップホップやハードロックのプロデュースで知られていたルービンだった。American Recordingsというレーベル。もともとDef Americanという名前で、ラップのレーベルとして知られていた場所だ。そこにカントリーの老兵を迎え入れる。普通なら考えられない組み合わせだと思う。

1994年の『American Recordings』は、キャッシュの自宅リビングで録られた。マーティンのドレッドノートギター一本。それだけ。あの深い声と、ギターの響きだけが部屋に満ちている。グラミー賞を獲った。グラストンベリー・フェスティバルでの受けはキャリアのハイライトだったと本人が書いている。カントリーのファンだけでなく、ロックやオルタナティブのリスナーがキャッシュを「発見」した。

そして2002年、ナイン・インチ・ネイルズの「Hurt」のカバー。

トレント・レズナーは最初、懐疑的だったらしい。自分の曲を70歳の老人がカバーすると聞いて。けれど完成した録音を聴いて、心を動かされたと語っている。……私も、あのミュージック・ビデオを初めて観たとき、しばらく動けなかった。古びた部屋。壁に飾られた過去の栄光の写真。震える手。テーブルの上の果物が朽ちていく映像。あれは音楽ではなく、遺書だった。いや、遺書というのも違う。遺書は誰かに宛てて書くものだ。あれはもっと、自分自身に向けた最後の問いかけのように聞こえた。

「I will let you down. I will make you hurt.」——私はあなたを失望させる。私はあなたを傷つける。レズナーが若い怒りとして書いた歌詞が、キャッシュの口を通ると、70年の人生を生き切った男の告白になる。同じ言葉が、まったく別の重力を持つ。MTVのビデオ・ミュージック・アワードで6部門にノミネートされた。最優秀ビデオ賞はジャスティン・ティンバーレイクが獲ったが、ティンバーレイク自身がスピーチでこう言った。「これは間違いだ。再集計を要求する。祖父が私をジョニー・キャッシュで育ててくれた。今夜ここにいる誰よりも、彼がこの賞にふさわしい」。

2003年5月、妻のジューン・カーター・キャッシュが亡くなった。心臓手術の合併症で、73歳だった。キャッシュはその後も録音を続けた。最後の4ヶ月で60曲を録った。ジューンが「仕事を続けなさい」と言ったから。7月5日、カーター・ファミリー・フォールドでの最後のステージ。「Ring of Fire」を歌う前に、キャッシュは紙に書いた声明を読み上げた。ジューンの魂が天国から降りてきて、今夜も自分に勇気をくれていると。

9月12日、キャッシュは亡くなった。ジューンの死からわずか4ヶ月後。71歳だった。

……深夜にヘッドフォンで「Hurt」を聴いていると、時々、不思議な感覚に襲われる。この声は、もうこの世にない人間のものだ。でもヘッドフォンの中では、まだ息をしている。まだ震えている。レコードに刻まれた溝の中に、誰かの人生がまるごと閉じ込められている。それは消えない。フェードアウトしない。

50歳になって、少しだけわかるようになったことがある。完璧な人間の歌より、壊れた人間の歌の方が、長く残るということ。キャッシュは自分のことを「最大の罪人」だと言っていた。そう言い切れる人間が歌う赦しの歌は、きれいな手で差し出される赦しとは重さが違う。

今夜も6畳の部屋で、針を落とす。黒い服の男の声が、また始まる……