キムヨナの顔が変わった、と人は言う

2010年2月25日。バンクーバー。
あの日の映像を、私は何度か見返したことがある。フィギュアスケートに特別詳しいわけではない。ただ、あの夜、たまたまテレビをつけていた。妻はもう寝ていたと思う。リビングで缶ビールを開けて、なんとなく中継を眺めていた。

キムヨナがリンクの中央に立ったとき、画面越しに空気が変わったのがわかった。音楽が鳴る前の、あの数秒間の静寂。彼女はまだ19歳だった。19歳の人間が、あれだけの重圧の中で、あんな目ができるのかと思った。息を止めていた。自分がビールの缶を握りしめていたことに、演技が終わってから気づいた。

キムヨナ。1990年生まれ。韓国のフィギュアスケーター。バンクーバー五輪金メダル、ソチ五輪銀メダル。世界選手権2度優勝。フィギュアスケート史上最高得点を何度も更新した選手で、韓国では「クイーンヨナ」と呼ばれている。フィギュアスケート不毛の地と言われた韓国から、突然世界の頂点に立った人だ。

で、今、ネットで「キムヨナ」と検索すると、上のほうに出てくるのは「整形」「昔の顔」「ビフォーアフター」といった言葉らしい。
……まあ、そういう時代だ。

あの夜の演技を覚えている人間と、「顔が変わった」と画像を並べている人間が、同じ画面を見ている。それが2024年のインターネットというものなのだろう。

ただ、私はこの話を「くだらない」と切り捨てる気にもなれない。人が誰かの顔の変化を気にするとき、そこには何か、もう少し複雑なものが動いている気がする。

顔は変わる。誰のものであっても

キムヨナのデビュー期の映像を見ると、まだ子供だ。丸い顔に、少し腫れぼったいまぶた。鼻もまだ低くて、田舎の中学生という感じがある。それが2009年、2010年と進むにつれて、顔つきが明らかにシャープになっていく。鼻梁が通り、輪郭が細くなり、目元もくっきりする。

これを見て「整形だ」と言う人がいる。
気持ちはわからなくもない。並べてみると、確かに印象が違う。

けど、ちょっと立ち止まって考えてみる。
自分の顔だって、13歳と23歳ではまるで別人だった。高校の卒業アルバムを見るたびに、「誰だこれ」と思う。50歳の今の顔と比べたら、もう笑うしかない。人間の顔は10代から20代にかけて、骨格が成熟し、脂肪の付き方が変わり、顔の構造そのものが変化する。東アジア系の女性は特に、20代前半にかけて鼻梁が高くなったり、輪郭がシャープになったりすることが医学的にも確認されているらしい。

加えて、フィギュアスケーターという特殊な身体がある。体脂肪率を極限まで管理し、筋肉のバランスを精密にコントロールする。体が変われば、顔も変わる。頬の肉が落ちれば鼻が高く見えるし、顎のラインも出る。引退後に体型が変わればまた印象が変わる。当たり前の話だ。

そしてもうひとつ、見落とされがちなこと。2003年のジュニア大会の映像と、2024年の広告写真を並べるとき、カメラの解像度もライティングもメイク技術もまるで違う。コンタリングひとつで頬骨の見え方は変わるし、照明の角度で鼻の高さは3割増しにもなる。同じ人間を、同じ条件で撮っていない画像を並べて「変わった」と言うことに、どれほどの意味があるのか。

……とはいえ、私はここで「整形していない」と断言したいわけでもない。
そもそも、わからないのだ。本人が何も言っていない以上、外からは判断できない。キムヨナ本人は整形について肯定も否定もしていない。所属事務所も公式コメントを出していない。美容外科医がYouTubeで「推測」を語る動画はいくつもあるが、直接診察していない患者について画面越しに診断するのは、医療倫理の観点からかなり問題のある行為だと思う。

韓国が世界有数の美容整形大国であることは事実だ。人口比の整形手術件数は世界トップクラスで、ISAPSの年次報告にも数字として出ている。その社会的背景が、韓国の有名人に対する「整形疑惑」を半ば自動的に生み出す構造になっている。韓国人の有名人であるというだけで、過去と現在の写真を並べられ、「どこをやった」と品定めされる。それはもう、SNS時代の一種の娯楽として消費されている。

「ビフォーアフター」という視覚的フレームは、変化を「人工的介入の証拠」として読解するよう受容者を誘導する認知バイアスを内包している。

これは確証バイアスと呼ばれるもので、「整形があった」という前提で画像を見ると、自然な変化までもが「証拠」に見えてしまう。人間の目は、見たいものを見る。

ここで私が思い出すのは、音楽の話だ。
好きなミュージシャンの昔のライブ映像と、最近のインタビュー映像を見比べたことがある。顔が全然違った。でも「整形だ」とは思わなかった。「歳をとったな」と思った。そしてその変化の中に、彼が生きてきた時間を感じた。
なぜ、キムヨナに対してだけ、人はそういう見方をしないのだろう。

たぶん、彼女があまりにも「完璧な存在」として記憶されているからだと思う。バンクーバーの夜、あのリンクの上で見せた完璧な4分間。あの瞬間の彼女のイメージが、私たちの中で凍結されている。凍結された19歳と、現在の34歳を並べて、「変わった」と驚く。でも、変わらない方がおかしいのだ。

ソチ五輪のことを少し書いておきたい。2014年、キムヨナは銀メダルだった。金はロシアのソトニコワ。あの採点をめぐって、世界中で議論が起きた。私はフィギュアの採点に詳しくないから、どちらが正しかったのかは判断できない。ただ、あのときのキムヨナの表情を覚えている。何かを飲み込むような、静かな顔だった。怒りでも悲しみでもなく、ただ黙って現実を受け入れようとしている人の顔。あの顔に、私は少し背筋が冷たくなった

あれだけのものを背負って、あれだけのものを出し切って、それでも結果が自分の手を離れていく。その瞬間を、世界中が見ていた。国民の期待を一身に背負い、「女王」と呼ばれ、完璧を求められ続けた人間が、完璧に演じてもなお報われないことがある。……それは、スポーツというものの残酷さであり、同時に、彼女が人間であることの証明でもあったと思う。

引退後の彼女は、高麗大学を卒業し、UNICEFの親善大使を務め、2018年の平昌五輪では聖火最終ランナーを務めた。IOCの選手委員としても活動している。競技者としての人生の後に、別の形で世界と関わり続けている。

そういう人の顔の変化を、「ビフォーアフター」で並べて消費すること。それ自体が何かを物語っている気がする。

凍結された記憶と、流れていく時間

深夜にレコードを聴いていると、ジャケット写真の中のミュージシャンは永遠に若い。1970年代のまま、1980年代のまま、そこに立っている。でも、針が溝をなぞる音の中に、確かに「時間」がある。録音された瞬間の空気が、何十年も経った今の部屋に流れ込んでくる。

キムヨナのバンクーバーでの演技も、そういうものだと思う。あの4分間は記録として残っている。何度でも再生できる。でも、あの瞬間のキムヨナは、もういない。19歳の彼女は、もういない。今は34歳の彼女がいて、彼女は彼女の時間を生きている。

顔が変わったかどうかなんて、本当はどうでもいいことなのだ。仮に何かの施術を受けていたとしても、それは本人の自由だ。受けていなかったとしても、それも本人だけが知っていればいい。外から推測して、並べて、品定めして……それで何が得られるんだろう。

私たちは、誰かの「変わらなさ」に安心したいのかもしれない。自分の記憶の中の美しいものが、そのまま残っていてほしい。でも、それは記憶を凍結させたいという、こちら側の欲望でしかない。

ヘッドフォンを外すと、マンションの部屋はしんとしている。窓の外は暗い。
今夜もまた、何かを書いてしまった。
キムヨナのことを書くつもりが、結局は「人の顔を並べて何かを言いたがる自分たち」のことを書いている気がする。

あの夜、缶ビールを握りしめながら見た19歳の彼女の演技は、私の中ではまだ凍っている。きれいなまま。
でも彼女はもう、とっくにその先を歩いている……