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【なぜ豚になった?】ジブリ「紅の豚」宮崎駿監督のメッセージ、あらすじ、名前の由来とは?

大人も子供も楽しめるスタジオジブリ作品。どの作品も魅力があってファンが多いですよね?

その中でもっとも「渋い」といえば『紅の豚』ではないでしょうか?

ただ一回観ただけではなんとなくストーリーが頭に入ってこない・・・というか何故主人公は豚なの?と思った人も多いはず!

今回はこの作品について調べてみました。

「紅の豚」のあらすじ※ネタバレあり!

時代背景

第一次世界大戦で戦勝国だったイタリア王国、しかし国民から「栄光なき勝利」と呼ばれるまでに経済が不安定になっていた。

1922年のローマ進軍以来、ムッソリーニ率いるファシスト党の独裁下となっている1929年頃の物語である。

(この後1931年から本格的にヨーロッパへ波及する大恐慌が起こるため、その雰囲気も醸し出されている。)

 

あらすじ

深紅の飛行艇を操る豚のポルコは、かつてイタリア空軍のエースだったが、今はアドリア海の小島に隠棲し、空中海賊(空賊)退治を請け負う賞金稼ぎとして暮らしていた。マンマユート団たち空賊連合は、いつも商売の邪魔をするポルコを目の敵にしている。ある晩、昔馴染みのジーナが営むホテル・アドリアーノを訪れたポルコは、米国製の飛行艇を操るアメリカ人カーチスに出会う。カーチスは空賊連合が雇った用心棒だった。

しばらく後、愛艇のエンジン整備のためミラノに向かって飛んでいたポルコは、カーチスと遭遇し撃墜されてしまう。ポルコが大破した愛艇をミラノの工房ピッコロ社に持ち込むと、待っていたのはピッコロの孫で17歳の少女フィオだった。ポルコは驚くが、フィオの熱意に絆されて愛機の設計を任せる。

一方、ファシスト政権に非協力的なポルコは、ミラノでも秘密警察や空軍に狙われていることが発覚する。警告に来たかつての戦友は空軍への復帰を薦めるが、ポルコにそのつもりはない。ホテル・アドリアーノでは一目ぼれしたカーチスがジーナに求婚するが、ジーナはポルコを待ち続けていた。

フィオの才能と献身によって復活した愛艇を駆り、ファシストの追手も振り切ってポルコがアドリア海に帰還すると、空賊連合が待ち受けていた。フィオの提案で、ポルコとカーチスの決闘が組まれ、ポルコはフィオを、カーチスはポルコの修理代金を賭けて戦うことになる。決闘当日、イタリア中の飛行艇乗りやならず者たちが大挙して見物に集まる一方で、ジーナは空軍の大編隊がポルコと空賊を一網打尽にしようと作戦を計画していることを察知していた。ポルコとカーチスのドッグファイトは決着がつかず、決闘は殴り合いにもつれ込む。危機を知らせにジーナが駆けつけると、二人は相打ちになっていたが、ポルコが辛うじて立ち上がり勝者となる。

 

その後、フィオはピッコロ社を継ぎ、ジーナと親交を温める。カーチスはアメリカに帰国後、ハリウッドスターへと転身する。そして、ホテル・アドリアーノの上空を紅い飛行艇が飛んでゆく。ポルコがフィオとジーナのどちらかと結ばれたのかは明かされないまま、物語は幕を閉じる。

引用:ウィキペディア

「ポルコが豚になった理由」いくつも語られる予想は?

戦争でただ一人残ってしまった自分への罰のため

劇中では、ポルコがかつて戦争で親友を失っていたことが回想として描かれています。ポルコはそのとき、死んだはずの親友が向かった“ずっと高いところにある一筋の不思議な雲”に行くことはできませんでした。

また、ジーナのお店では、ポルコが人間だったときのたった1枚だけ残った写真が飾られていましたが、その顔は塗りつぶされており、ポルコ自身はその写真を外さないことが気に食わないと言っています。

他にも、ポルコは「(戦争で)死んだやつはいいやつさ」とも言っています。つまり、生き残ったポルコは、自分が“いいやつ”だとは思ってはいないのでしょう。

これらからは、ポルコは人間だったことの自分を“黒く塗りつぶす”ほどに嫌っていること、自分だけが生き残っていたことに罪悪感を覚えていることがわかります。

政治や欲に塗れた人間になりたくなかったため

ポルコは飛行機乗りが戦争や国家のために働かなければならなくなってきていることに、はっきり否定の気持ちをはっきり表しています。

自由に生きるために人間ではない存在になりたいという気持ちが、彼の姿を変えたのかもしれませんね。

 

ジーナと恋人にならないようにするため

ジーナは3回も飛行艇乗りと結婚しましたが、その相手はみんな死んでしまったため「もう涙も枯れちゃったわ」と語っていました。

同じく飛行艇乗りのポルコは、そんなジーナを見かねて、自分が豚という醜い姿となることで、自分はジーナとは恋仲にはならない、もうジーナを悲しませたりはしないと考えていたのかもしれません。

 

そのポルコの気持ちはジーナには関係なくて、作中でジーナは、もし自分がいるときにポルコが庭に現れたら、今度こそ愛するという“賭け”をしていましたが・・・

 

ジブリ公式では「豚になった理由はない」?宮崎駿監督も質問にうんざりしている・・・

やはりポルコが何故豚になってしまったのかは観客誰もが気になることですよね。

 

実は宮崎駿自身、「ポルコはなぜ豚になってしまったの?」という質問にうんざりしているようです。まだ『紅の豚』が機内上映用の15分の短編映画として製作されていたとき、鈴木敏夫プロデューサーが「そもそもなんでこいつ豚なんですか?」と聞くと、宮崎駿は「すぐ原因と結果を明らかにしようとする!」と怒っていたそうです。

上映後のアンケートでよく書かれていた“最後にポルコは人間に戻れたんですか”という質問に対しても、「人間に戻るということがそれほど大事なことなんでしょうか?」と答えています。

 

宮崎駿監督も何度もこの質問をされていますが、特に理由を語らずにいますね。

監督としては「主人公が豚」であることは全く重要ではない部分なんでしょうね。

 

このような因果関係をはっきりさせようとするのは、大人の考え方かもしれませんね。あえていくつも理由を想像できるように物語を曖昧にさせておく監督の手法の一つとして受け入れる必要があるかもしれません・・・

 

 

ポルコは宮崎駿監督の分身?

物語と関係ない部分の話になりますが、「紅の豚」のポルコは宮崎駿監督の憧れの象徴とも言える存在かもしれない、という話もあります。

 

(1)宮崎駿のイラストの自画像はまさに“豚”になっている

(2)宮崎駿は戦争で作られる兵器や飛行機への憧れがあるのにも関わらず、戦争を否定するという矛盾を抱えている

 

宮崎駿監督の作品ではよく戦争に対して「くだらない」「必要ない」というメッセージを登場人物が語ることが多いですよね。例えば「ハウルの動く城」のサリマンが映画の終盤で「総理大臣と参謀長を呼びなさい。このバカげた戦争を終わらせましょう。」と言ったり・・・

 

 

同じ飛行機や戦争のある時代を作品化した映画に「風立ちぬ」があります。こちらは飛行機の設計家が主人公でしたが、その中で戦争の道具として使われてしまう飛行機に対して複雑な感情が現れていました。

 

一方「紅の豚」の大筋は軽快で楽しく、現実的な戦争というよりかは純粋なロマンある物語になっていますよね。

 

豚が“宮崎駿の純粋な飛行機への憧れ”の象徴であるという根拠もあります。それはエンドロールで映し出される“飛行機の黎明期”を描いたイラストで登場しているのが、みんな豚であったことです。

宮崎駿自身も、このイラストについて「どんなものでも黎明期はキラキラしているけど、それは現実に資本や国家の論理に組み込まれてしまう」と、純粋に愛するべきものも、やがては人間らしい利害関係に組み込まれてしまうことを語っていました。つまり、豚とは、宮崎駿が純粋に大好きな飛行機のことを思い続けられることそのものを示しているとも考えられるのです。

引用:シネマプラス

 

主人公を豚にすることで純粋さを残し、戦争の醜さや世俗に塗れた存在にならないように表現しているんですね。

 

戦争と飛行機はもう切っても切れない関係であるのが当たり前となってしまった時代への悲しさももしかしたら含まれているのかもしれません。

 

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今回もお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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