桑田佳祐 70歳へ。世代を超えて響く「日本語のリズム」とサザンの真髄
桑田佳祐、70歳。日本語がリズムになる瞬間のこと
2026年2月26日、桑田佳祐が70歳になる。古希だ。
古希という言葉の響きが、どうにもこの人には似合わない。けど、数字は数字だ。1956年2月26日に茅ヶ崎で生まれた男が、70年間この世界にいる。そのうちのおよそ48年間、ずっと歌っている。私はそのうちの40年近くを、聴く側として過ごしてきた。
桑田佳祐。サザンオールスターズのフロントマン。日本のポピュラー音楽において、たぶん最も多くの人間の記憶に声が刻まれている人物だと思う。シングル・アルバムの累計売上は5000万枚を超え、2003年にはHMV Japanの調査で「最も重要な日本のアーティスト」の1位にサザンオールスターズが選ばれている。数字で語れることは、まあ、いくらでもある。
でも私が書きたいのは、数字の話ではない。
桑田佳祐の声を聴くと、日本語がリズムそのものになる瞬間がある。意味よりも先に、音が体に入ってくる。あの感覚について、ずっと書きたかった。70歳という節目に、書いておく。
日本語を「外国語」のように歌った最初の人
1978年、「勝手にシンドバッド」でデビューした時、桑田佳祐の歌い方は「何を言っているかわからない」と言われたらしい。歌詞カードを見ても、耳に入ってくる音と一致しない。日本語なのに、日本語に聞こえない。当時の音楽評論家は「意味不明」「チャラい」と書いた。
でも今にして思えば、あれは日本語の音としてのポテンシャルを、誰よりも早く引き出したということだったのだろう。英語のロックやR&Bが持っているリズムの快楽——母音と子音の連なりが生む身体的なグルーヴ——を、日本語でやろうとした。というか、やってしまった。意識的だったのか無意識だったのか、それは本人にしかわからない。たぶん、両方だと思う。
私が初めて桑田佳祐の声を聴いたのは、たしか高校1年か2年の頃だった。ラジカセから流れてきた曲が何だったか、正確には覚えていない。ただ、腰のあたりがざわっとした感覚だけは覚えている。洋楽ばかり聴いていた私にとって、日本語の歌でそういう反応が起きたのは初めてだった。言葉の意味が頭に届く前に、体が反応した。それが桑田佳祐だった。
彼の音楽的なルーツは、ビートルズ、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、オールマン・ブラザーズ・バンド……つまりアメリカやイギリスのロック、ブルース、R&Bだ。茅ヶ崎という土地は、横須賀や厚木の米軍基地に近く、戦後からアメリカの音楽が流れ込んでいた。姉がビートルズの熱心なファンで、幼い頃からレコードを聴いて育ったという。映画館を経営していた父親、飲食店を営む家庭。地元の空気と、海の向こうから来た音楽。その両方が、彼の中で混ざった。
けど、桑田佳祐は洋楽のコピーにはならなかった。ここが決定的に重要だと思う。
日本語には、英語にはない特性がある。母音が必ず付く。音節が等間隔になりやすい。だから英語のように子音を畳みかけてリズムを作ることが難しい。多くの日本のロック・ミュージシャンが、そこで壁にぶつかった。英語で歌うか、日本語を英語っぽく崩すか、あるいは日本語のまま別のリズムを探すか。
桑田佳祐がやったのは、第三の道だった。日本語の母音の連なりそのものをグルーヴに変えるということ。言葉を歪め、伸ばし、詰め、時にはわざと聞き取れないように歌うことで、日本語が持つ音の柔らかさや粘りを、リズムの快楽に変換した。後に「表音的戦略」と呼ばれるようになったこの手法は、意味の重さを音の快楽で包むという、高度な詩的技法だった。
1989年、レイ・チャールズと「Ellie My Love」でデュエットしたことがある。「いとしのエリー」の英語版で、サントリーのCMに使われた。オリコン3位、40万枚以上を売り上げた。レイ・チャールズにとっても日本での最高位のシングルだったらしい。あの曲を聴くと、桑田佳祐が本来いるべき場所というか……いや、「いるべき場所」なんて大げさだな。ただ、ソウルやR&Bの本流にいる人間と並んでも、彼の声は全く負けていない。むしろ、日本語で歌うことで生まれる独特の色気が際立った。あのデュエットを初めて聴いた時、背中に冷たいものが走ったのを覚えている。
桑田佳祐のキャリアを振り返ると、その変遷の幅に改めて呆然とする。
初期のサザンは、湘南の夏、享楽、エロティシズム。「異端児」と呼ばれた。既存の歌謡曲ともフォークとも違う、得体の知れないエネルギーがあった。ロック、ポップ、レゲエ、ファンク、ラテン、演歌の情緒まで——あらゆるものを飲み込んで、「ミックスジュース」のような音楽を作った。
1990年代になると、「真夏の果実」「TSUNAMI」のような普遍的なバラードで「国民的アーティスト」になった。「TSUNAMI」は293万枚。2000年のレコード大賞。けど、私があの曲で息を止めたのは、売上の話ではなく、あのサビの旋律が持つ喪失の手触りのほうだ。去りゆくもの、流れ去る時間、埋めようのない何か。2011年の震災後、あのタイトルが持つ意味が変わってしまったことも含めて、音楽と社会が不可分であることを痛感させられた曲だった。
2010年、食道がんの診断。54歳。手術で食道の一部を切除した。復帰は同年大晦日の紅白歌合戦。翌年、アルバム『MUSICMAN』をリリースしてオリコン1位。そこから「明日へのマーチ」のような震災復興ソング、「ヨシ子さん」のような身体性と猥雑さに満ちた楽曲、「Relay〜杜の詩」のような政治的メッセージを含む曲まで、守備範囲はさらに広がっていった。
2019年にはビートルズの『Abbey Road』をパロディした「Abe Road」を発表している。政治や社会問題への風刺を、ビートルズへのオマージュに重ねるという、ちょっと信じがたい離れ業だ。これが後にアメリカの音楽理論学会(Society for Music Theory)で学術的に分析され、2023年に「パブリック・フェイシング・スカラーシップ・アワード」を受賞した。日本のポップ・アーティストが、海の向こうの音楽学者の研究対象になる。しかもパロディで。こういうことをさらっとやってしまう人だ。
2025年には16枚目のスタジオアルバム『THANK YOU SO MUCH』をリリースし、全国26公演のアリーナツアーを完走。10月には武道館でソロ公演「Keisuke Kuwata Folk Festival 2025」を開催した。10年ぶりの武道館だったという。
……69歳の男が、まだこれだけ動いている。
私が思うのは、桑田佳祐は「老い」を隠さないということだ。むしろ、老いることそのものを歌の素材にしている。がんを経験したことも、体が以前のようには動かないことも、たぶん隠していない。けど、それを悲壮感で塗りつぶすのではなく、どこかユーモアと軽やかさでくるんでしまう。重いものを、軽く持つ。それは技術でもあるし、覚悟でもあるのだろう。
笑いとエロスと哀愁が混在する——そんな形容が、桑田佳祐にはよく似合う。重さに押しつぶされそうな現実に、軽やかに切り込んでいく。それは芸であり、同時に、生き方そのものだ。
SNSでは若い世代が「初めて聴いたのに懐かしい」と書いているのを見かけることがある。あの感覚は、たぶん正しい。桑田佳祐の音楽には、個人の記憶を超えた何かがある。日本語の響きの中に、この国で生きてきた人間が共有している何らかの記憶——夏の匂い、潮風、祭りの後の静けさ——みたいなものが、音として埋め込まれている。それは世代を超えて伝わるらしい。
70年目の声
深夜、ヘッドフォンで桑田佳祐を聴くことがある。
派手なライブ映像ではなく、スタジオ録音の、できるだけ静かな曲を。「白い恋人達」あたりを、音量を絞って。2001年のシングルで、ソロとしては最大のヒット——初週52万枚、累計123万枚。冬の情景を歌ったバラードだ。
数字はどうでもいい。問題は、あの声だ。
桑田佳祐の声には「傷」がある。きれいなだけの声ではない。荒さがあり、掠れがあり、時々裏返りそうになる危うさがある。その傷の中に、甘さと悲しみが同居している。完璧に制御された声ではなく、生きている声。だから40年聴いても飽きない。飽きないどころか、聴くたびに違うものが聞こえる。私の耳が変わったのか、声が変わったのか。たぶん、両方だ。
70歳。私もあと20年すれば、そこに届く。
桑田佳祐が歌い続けていることの意味を、50歳の私はまだ完全には理解できていないと思う。ただ、深夜のこの部屋で、ヘッドフォンから流れる声を聴きながら、自分の中の何かが静かに励まされているのは感じる。励まされている、というのも少し違う。もっと正確に言えば、自分がまだここにいることを許されているような感覚に近い。
消えゆくものばかりの世界で、まだ鳴っている声がある。
日本語がリズムになり、リズムが体を揺らし、体が「ここにいる」と言う。それだけのことが、どれほど得がたいか。70歳の桑田佳祐が歌うたびに、私はそれを思い知らされる……