浅野温子の息子・魚住優がNHKアナウンサーになったという話

浅野温子。1961年生まれ。私と、ほぼ同世代だ。

80年代後半、あの人はテレビの中で圧倒的だった。『あぶない刑事』の薫。『抱きしめたい!』の池についた波紋みたいに広がっていく、あの空気。ハスキーな声と、媚びない目。当時の私は大学生で、友人のアパートの小さなテレビで観ていた記憶がある。正直、ドラマの内容はあまり覚えていない。けど、画面に浅野温子が映ると、部屋の空気の密度が変わる感じがあった。あれは何だったのか、いまだにうまく言葉にできない。

で、今日書きたいのは、その浅野温子の「息子」の話だ。

魚住優。NHKのアナウンサーをしている。浅野温子の息子がNHKアナウンサー。この組み合わせに、最初に気づいたとき、少し息が止まった。あのトレンディドラマの女王の息子が、よりによってNHK。派手さとは対極にある、あの抑制された世界に。……面白い、と思った。面白いというか、なんだろう、人生の振り子の揺れ方みたいなものを感じたというか。

そして、その魚住優には結婚相手がいる。嫁の存在。浅野温子と嫁の関係。このあたりのことを、少し書いてみたい。

大女優の息子がNHKアナウンサーになるということ

魚住優は、浅野温子と演出家・魚住勉の間に生まれた。父親の魚住勉はテレビドラマの演出を手がけてきた人物で、つまり両親ともにテレビ業界の人間だった。その環境で育ちながら、俳優ではなくアナウンサーという道を選んだ。しかもNHK。

これは、たぶん、外から見るほど単純な話ではない。

芸能人の子供が芸能界に入る、というのはよくある話だ。二世タレント。二世俳優。世間はそういうものに慣れている。でも、「伝える側」に回るという選択は、少し違う意味を持つ気がする。表現する側ではなく、伝達する側。光を浴びる側ではなく、光を当てる側。……いや、アナウンサーだって十分に光を浴びる仕事だけど、ニュアンスが違う。

浅野温子のあの圧倒的な存在感を間近で見て育った人間が、自分は「抑制」の側に立つことを選んだ。私はそこに、ある種の誠実さを感じる。母親の影を追うのでもなく、母親に反発するのでもなく、ただ自分の適性と場所を見極めた、という感じ。もちろん本人にしかわからないことだけど。

魚住優はNHKに入局後、地方局での勤務を経験しながらキャリアを積んできたらしい。NHKのアナウンサーというのは、いわゆる華やかな芸能界とは全く別の文法で動いている世界だ。正確さ、中立性、抑制。感情を込めすぎてはいけない。でも、無味乾燥でもいけない。あの独特の緊張感は、ある意味で、良い役者の演技に近いものがあると思う。自分を消しながら、でも確かにそこにいる、という。

浅野温子自身が、息子のこの選択をどう受け止めたのか。公にはあまり多くを語っていないようだ。でも、それがいい。語らないことが、そのまま敬意のかたちだと思うから。

ただ、一つ想像してしまうことがある。浅野温子が、ふと自宅のテレビをつけたとき、NHKの画面に息子が映っている。ニュースを読んでいる。抑制された声で、正確に、淡々と。あの人は、そのとき何を感じるんだろう。私がもし親だったら、たぶん、胸の奥の方がぎゅっとなる。誇らしさとも寂しさとも違う、名前のない感情。……そういうものがあるんじゃないかと、勝手に思う。

嫁のこと、家族のかたち

魚住優の結婚相手について、公に出回っている情報は多くない。NHKアナウンサーの配偶者というのは、基本的に表に出てこないものだ。一般の方であれば尚更。

ただ、断片的な情報から見えてくるのは、派手さとは無縁の、堅実な結婚だったということだ。大女優の息子の結婚相手としてワイドショーが飛びつくようなドラマチックな展開があったわけではなく、静かに、普通に、家庭が築かれていった。その「普通さ」が、むしろ印象に残る。

浅野温子と嫁の関係、いわゆる嫁姑関係についても、世間に流れてくる話はほとんどない。ゴシップ的な不和の噂もなければ、「仲良し嫁姑」をアピールするような露出もない。この沈黙は、たぶん、意図的なものだと思う。

浅野温子という人は、2000年代以降、ある決定的な転回を遂げている。聖書朗読のライブ活動だ。「Words of Love」というコンセプトで、全国各地をまわって聖書のテキストを朗読する。トレンディドラマの女王が、聖書を朗読する。この変化の振幅に、私は鳥肌が立った。初めてそのことを知ったとき、6畳の部屋で一人、しばらく動けなかった。

なぜかというと、あの声だからだ。80年代にドラマの中で軽快に飛び跳ねていたあのハスキーボイスが、聖書の言葉を発している。その想像だけで、何かが揺さぶられる。声は変わらない。でも、声に乗せるものが変わった。いや、変わったというより、深くなったのかもしれない。

こういう変化を遂げた人間が、息子の家庭に過剰に干渉するとは思えない。むしろ、一定の距離を保ちながら、静かに見守る。そういうかたちの関係性が、この家族にはあるのだろうと想像する。根拠はない。ただ、浅野温子という人の後半生の歩み方を見ていると、そう思えてしまう。

バブルの時代に消費文化の象徴だった人が、やがて物質を手放し、言葉の本質に向かっていく。息子は表現者ではなく伝達者の道を選ぶ。嫁は表に出ない。家族全体が、ある種の「引き算」の美学を共有しているように見える。足していくのではなく、引いていく。削ぎ落としていく。そこに残るものが、本当のものだ、と。

……まあ、これは私の勝手な読み込みに過ぎない。実際の浅野家がどういう空気で暮らしているかなんて、知る由もない。

でも、人の家族の話を聞くとき、私たちはいつも、自分の家族のことを考えている。少なくとも、私はそうだ。

私にも息子がいる。音楽の話はしない。この6畳の部屋のことも、このブログのことも、たぶん知らない。知らなくていいと思っている。でも、ときどき、廊下の向こうから息子の生活音が聞こえてくると、レコードの針を落とす手が一瞬止まる。あの音は、何だろう。冷蔵庫を開ける音。水を注ぐ音。そういう、ごくありふれた音が、深夜には妙に大きく聞こえる。

浅野温子も、こういう夜があったのかもしれない。あるいは、今もあるのかもしれない。大女優だろうが、経理部員だろうが、親は親で、夜は夜だ。

家族というのは、たぶん、説明できないものの集合体だ。理解しているとも言い切れないし、理解していないとも言い切れない。ただ、同じ屋根の下にいる。あるいは、かつていた。その事実だけが、静かに積み重なっていく。

魚住優がNHKのカメラの前に立つとき、その背後には浅野温子のDNAがある。あのハスキーボイスの遺伝子が、抑制された声でニュースを読んでいる。嫁はそれを、たぶん、家のテレビで観ている。あるいは観ていないかもしれない。どちらでもいい。家族というのは、そういうものだ。観ていても、観ていなくても、つながっている。

深夜2時。ヘッドフォンを外す。レコードの回転が止まる。静寂。
浅野温子の声が、記憶の中でかすかに反響している。80年代の、あの軽やかな声。そして、聖書を朗読する、深い声。二つの声が重なって、やがて消えていく……